緊急時における安否確認の要諦

 国民の記憶に残っている大事件の一つに1995年3月20日朝、東京で起こった地下鉄サリン事件があります。東京の地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の乗客、駅員が41人、負傷者約6300人という大事件が起き、東京は大混乱になりました。事件はオウム真理教という「オカルト」集団による殺人事件です。治安機関もオウム真理教という組織については十分に監視し、警戒していたと思います。しかしその「まさか」が起きたのです。

 ほとんどの国民はサリンという薬剤がどのような毒物かを当然のことながら知りませんし、平和な日本においてそのような毒物を東京の地下鉄内で散布するような事態が起きると思った国民は一人もいなかったと思います。国民はこのような事態が起こった時にとるべき対策や手段・方法も咄嗟には思い浮かばなかったと思います。しばらくして東京消防庁の化学機動中隊が原因物質の特定にあたりましたが、当時の分析装置には「サリン」のデータがインプットされていなかったと言われていて原因究明とその対策・処置にはかなりの時間がかかり、また、地下鉄構内でサリンを浴びた多数の国民を救出する作戦は困難を極めたと思います。
私は当時、1995年1月17日以来、兵庫県で起きた阪神淡路大震災発災に伴う自衛隊の対策本部長として県庁で勤務していました。

 3月20日は東京の娘の中学校の卒業式の日でした。テレビではこの事件のことを
大々的に報道していたそうですが、この事件が起こったことを知らない妻と娘は地下鉄丸ノ内線・荻窪駅から乗車し、中学校へ向かっている時間帯でした。

 私はこの放送を聞いて心臓が止まる思いでした。この路線は家内と娘が地下鉄に乗って卒業式参加のため中学校へ行っている時間帯ではないか、二人がこの事件に巻き込まれているのではないかと心配になり、自衛隊の地震対策本部長として勤務していたとはいえ、頭の中を家族に置き換えて東京の留守宅に電話を入れました。たまたま長男が家にいましたので用件を伝え、学校に母と妹が無事についたかどうか確認したのち私に電話するように頼みました。学校では卒業式の最中でしたから教職員たちはテレビ報道については知らなかったのでしょう。卒業式が無事に終わってからサリン事件が起きたことを知り学生たちに注意喚起をしたそうです。卒業式の時間帯に子供たちが無事であるのか学校に電話が殺到したことは容易にわかることです。

 家内と娘の消息が分かるまでに随分と時間がかかりましたが無事であることが分かりました。都民や国民が家族等の無事を確認するために電話を掛けだしたものですから電話回線は大混乱に陥り、相当な時間、不通となりました。従って家族に異常がなかったことを確認するまでには電話で確認できたのは午後になってからでした。
さらには同年1995年6月21日には全日空便が函館でハイジャックされる事件が起きました。犯人は毒ガス・サリンを持っていると脅したようです。当時、やっと災害派遣が終わりひと段落した時期で方面隊の最高指揮官である総監も隷下部隊の視察で不在でした。単なるハイジャック事件であるならば対応は警察です。余談になりますが、過去には1976年9月6日、ソ連の戦闘機パイロット・ベレンコ中尉が最新鋭のMIG25迎撃戦闘機で函館空港に強行着陸し米国への亡命をしようとする事件がありました。ソ連の軍用機ということもあり自衛隊も対応にあたった事件でした。

 この函館におけるハイジャックがどのような形態なのかいまだ判然としていなかったものですから、いわゆる「作戦幕僚」としてこの事態に取りあえずの対策としてこの種事案の対策処置は警察が実施することなので当面、自衛隊が直ちに対策をとる必要がないと判断し、総監が出張先か帰隊する必要がない旨を報告しました。ただし、ハイジャックの詳細が分かり次第特に東京方面へハイジャック機が移動した時点で総監には帰隊していただくという内容で報告・了解を得ました。結果として方面隊で処置することは何もありませんでした。

 このような重大事件や緊急事態における速報は家族や会社社員等の無事を取りあえず確認することだけですから迅速性、効率性、確実性等を考慮すれば、携帯電話を持っている方はラインを使った速報システムを構成することを薦めます。

 この際、まずは社員や家族の安全等を確認することが大事ですからメール内容は原則として一言「無事」とだけを送ります。いろんなことをもっと知りたければ状況が少し落ち着いてからでよいと思います。その細部はそれぞれの組織内で決めておけばよいと思います。

 我が家でも緊急速報システムは携帯電話のラインを使う方法です。家族ラインを構築しておけば一言で家族全員に即時かつ同時に連絡が出来ます。現在は毎朝定時に一言「異常なし」というメールを私からラインを使って送り、家族から返信は「了解」のみを送ってもらうようにしています。送られた相手は「確認メール」を送ることが大事です。

 また、速達の実効性をより確保するために必要な伝達・応答訓練を組織内で定期的に実施しておくことも大事なことです。

 子供でもないのにそんなことまでする必要がないと思うことは勝手ですが「緊急時は子供だから大人だからという区別はしていません。いつ起こるか分からない」のが普通です。

 このシステムを構築したならば、これを使って定期的に「異状なし」などの交信訓練を行うことが必要です。電話が錯綜している時に長々しい言葉や文章は必要ありません。ただ「異常なし」とだけ送信すればいいと思います。細部は事態が落ち着いてから処置すればいいと思います。

 通報するにあたっては交信する相手を事態に応じて区別しておくことも大事です。たとえば、職場ライン、企業等とのラインです。こうしておけば一人一人に情報を送信する必要がありません。しかし、このラインは「だれだれに送るライン」であることを相互が承知している必要があります。

 想定外のことを想定することは極めて難しいことです。若いうちは頭の回転も速く、対応も素早くできるかもしれません。しかし歳をとってきますとそうはいきません。

4月10日
一般社団法人 防災訓練士協会
名誉会員 野中光男